「人という字は人と人が支え合って立っている」
といった某八先生の有名なセリフがある。
一方で、
「人という字は片方が寄りかかって楽をしている」
といった某八幡先生の有名なセリフがある。
では、彼らが一人になるとどうなるか。
支えているものがいなくなれば、当然彼は倒れてしまうように思える。
しかし、自分の足でまっすぐ立ったほうが楽になるような気もする。
支えられているものがいなくなれば、彼は苦しみから開放されるように思える。
しかし、バランス感覚が崩れて倒れてしまうような気もする。
要は、大概のものにそれなりの意味はあるし、思っているほど意味はないということだ。
たとえば、主が毎年クリスマスの時期になると単身でデートスポットを散歩することだってそうだ。
一見、ただ主が惨めなだけなこの奇行。だが、それを見たカップルたちは見るからに自分たちよりも世界ランクが低い下等生物をオカズに優越感に浸ることができる。そして、それを感じ取ることで気持ちよくなり世界ランクを上げることができるBボタン入力中のカービィまたは下B入力中のネスな主。
意味のなさげなことに意味を見出すことは思ったより簡単なのだ。どんなものごとにも意味は含まれているのだから。

(photo by 野生のカップル)
ただ、含まれた意味に大いなる力が宿っていることは稀有だ。
それは自らの存在意味についても同様である。
人間というのは傲慢で己が生まれてきた意味、存在する意味に対し、なにかこう圧倒的で感動的な理想的超えて完璧な運命的で冒険的なときに叙情的な、RADWIMPS的なものを期待してしまう。
否、実際にそんな意味はない。大抵の者の存在意味なんて、平均的で盲目的、半永久的に安泰な無痛 無臭 無害 無安打 無失点のものである。まぁどちらにせよRADWIMPS的なのは変わらなかったが。
なぜこんな偉そうなことが言えるか。ほかでもない、主がその傲慢な人間だからだ。
私は、ここ3ヶ月ほど部活を休んだ。
原因は言うまでもなく私の婚約相手である。おかげで、学年会に行けなかった。合宿にも行けなかった。対抗戦の初戦にも行けなかった。JSPORTSコメント欄で話題の美女との誕生日会も開けなかった。(万全な体調でも開かれていたかは不明)
それでも、チームに大きく変わったことはなかっただろう。選手ですらない私がいてもいなくても特に痛手にはならない。事実、対抗戦初戦はあれほど素晴らしい試合を見せてくれた。チームにとっての私の存在意味なんてそんなもんだ。そんなことは百も承知である。そこが問題なのではない。
ただその場にいたかった。同じ時間を過ごしたかった。同じ空気を吸いたかった。私もチームの一員でありたかったのだ。
私単体がちっぽけな存在なのは悔しいながら完全に理解している。だが、いやだからこそ、チームという大きな意味のある存在の小さな小さな一部分でありたいのである。虎の威を借りたかった狐だ。

いないことで、元々小さかった意味はさらに縮んでいっただろう。それでも、そんな小さな部品を気にかけてくれる人がいてくれた。連絡をくれたり、家まで来てくれたり、朝起きたら机の上に覚えのない大量のハンバーガーがおいてあったり。
こんなにうれしいことはなかった。こんなに小さいと思っていた、大した意味もないと思っていた自分を見てくれている人がいる。それだけで大きすぎる存在意味が見出せた。
少々大げさで小っ恥ずかしい文章になってしまった。これではまるで愛を知らずに育った獣みたいなので舵を戻そう。つまり、人の優しさに、ぬくもりに、「会心の一撃」を喰らったわけである。
絶対的に大きな存在意味を持つ何者かになりたいと願っていた主だったが、それは難しいと改めて感じた。だが、何者でもない自分に意味を見出してくれる人がいた。自ら己の意味は見出だせなくとも、自分でない誰かが見出してくれるだけでそこに大きな意味が生まれる。自分のために生きれなくとも、他者が自分を生かしてくれる。
人間が生きる意味というのは存外、自らの外側に広がっているのかもしれない。
ともすると、今の主にはあまりに友人が少ないので、まずは学校に行くところから始めていきたい。一年ぶりに学校に行ったとて、友人ができる見込みはまったくないが。
あれ、学校に行く意味ってなんだっけ、、、
ただ、なんにせよあの冷めきったハンバーガーはとてもあたたかかった。
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