大抵の場合、私は精神論が嫌いだ。(精神病患者より)
心は見えない。
だから、とりあえず気持ちのせいにしとけば問題が視界から見えづらくなる。そんな気がするのだ。
けれども、これが『精神をないがしろにしていい』理由には全くならない。精神論が嫌われる理由は精神だからではなく、論がないからだ。むしろ、あるべき心の持ち用がなければ、論理が成り立たないことだってありうる。
今回扱うのは、「言い訳としての精神論」でなく、「理想の心の在り方」という文脈での論としての精神である。
では何の精神かというと、「学生スポーツの学生スタッフとしての精神」だ。ただ、くれぐれも誤解してほしくないのは、これは単に『主による主自身の理想』であるだけだという点だ。何も説教だとか、そんなくだらないものではない。主の自己表明とかいう、もっとくだらないものである。
”学生”スタッフの難しさ
学生スポーツチームの学生スタッフには独特の難しさがある。
それは、「学生である」ということだ。
プロのスタッフとの違いは一つ、給料が出ないこと。でも無給ではない。支払われるのは”意味”だ。勝利の分け前、感謝、居場所。先に言っておくと、主はこれが貰えることが何よりも嬉しい。
ただ、これが難しさの根源でもあるのだ。
お金は、ある種の絶対的な価値をもつ。一方、勝利の分け前や感謝、居場所といった意味に絶対的な価値はない。むしろ、人によって感じ方や捉え方が大きく異なる。だから、給料以上に「こんなにやったのに、貰えるのがこれだけ、、」とがっかりする者もいるのだ。
また、スタッフの仕事は「何も起きないこと」で完成する。
完璧にやるほど存在が消える。何も起きなかった日、誰も保険屋に感謝しない。そして、大抵の場合、給与としての意味は、仕事の価値ではなく、仕事の可視性に支払われる。
主役のリスペクト
スタッフたるもの、選手のことを最大限リスペクトすべきだろう。
学生に限らず、スポーツチームにおける「主役」は間違いなく「選手」である。”スポーツ”を主体として軸に添えた組織である以上、その体現者である選手が中心なのは疑いようがない事実だ。
だが、この「主役」というのは「特等席」のことなどではない。負荷の集積点のことだ。一番痛い場所、一番削れる場所、一番風当たりの強い場所。そここそが主役である。だから主役へのリスペクトというのは、選手という身分への敬礼ではない。負荷への敬意である。
リスペクトは「そっちが先」と言い合った瞬間、永遠に発生しなくなる。誰かが先払いするしかない。主は、起点を必ず自分に置くと決めた。これは謙遜ではない。かといって、見返りを期待したものでもない。
リスペクトは、見えづらいものまで見ようとする姿勢だ。
冒頭で「心は見えない」と書いた。撤回しない。心は見えない。だが、負荷は見える。誰の身体がどれだけ削れていて、誰の心がどれだけ削れていて、誰がどれだけ汗を流しているか。これは精神の話ではなく、観測の話だ。相手の負荷が、正しく見えているか。リスペクトとは、突き詰めればそれだけのことだ。
だから、見えたものを見えたと言うのに、謙遜は要らない。山を高いと言う人間は、謙虚なのではない。正確なだけだ。
主のリスペクトは、打ち切りようがない。目を閉じない限り、見えてしまうからだ。主が決めたのは、敬意を持つことではない。目を逸らさないことだ。感情は自分にすら命令できない。けれど、目を向ける先なら自分で選べる。
Oh~yeah~ Ah~
グッドスタッフ
グッドスタッフ(good st”u”ff)とは、カードゲーム用語で『特定のコンボや相性を重視するのではなく、単体で性能や汎用性が非常に高いカードだけを集めて構成したデッキや戦術』のことを指す。
対義語がコンボデッキである。コンボデッキは、『揃えば最強、揃わなければ何もできない』ような戦術だ。この「手元に必要なカードが揃わないこと」を「事故」と呼ぶ。
そして、グッドスタッフの一番の強みが「事故らないこと」である。
学生スポーツは事故りやすい。選手が消える。試合に負ける。感謝は途切れる。4年間のうち、コンボが綺麗に揃う瞬間は限られている。
だからこそ、私はグッドスタッフでありたい。
グッドスタッフとは、単体で機能する心のことだ。勝利という追い風がなくても、感謝というドローがなくても、盤面に出たターンから仕事をする。リスペクトを先払いし、見返りをデッキに組み込まない。グラウンドで何もできないスタッフだからこそ、「どんな環境でも、自分なりの最大限を発揮し続ける」。それがグッドスタッフ(good st”a”ff)なのではないだろうか。
色事故
ここまで読んだ人は、当然こう思うはずだ。
「見返りを当てにしないなら、何のために頑張るんだ」と。
まっとうな疑問である。綺麗事で流す気はない。
先に白状した通り、主は意味の給料が欲しい。勝利の分け前も、感謝も、居場所も、貰えたら何よりも嬉しい。欲しくない、とは一行も書いていない。「デッキに組み込まない」とは、欲しがらないことではない。引けたら最高、引けなくても回る。そう組む、という話である。
ただ、そうなると問題が残る。
引けない日、このデッキは何で回るのか。
カードゲームには、カードを唱えるための燃料がある。それをマナという。
どれだけ強いカードを揃えても、マナが出なければ全部手札で腐る。
つまり事故には二種類あるのだ。必要なカードが揃わない事故と、カードはあるのに唱えられない事故。やる事は分かっている。体も動く。ただ、やる理由が今日は出ない。スタッフの手元で起きるのは、大抵こっちである。
動機とは、デッキで言うマナのことだ。
感謝は、強力なマナである。勝利も、いい雰囲気も。一度出れば燃費が跳ね上がる。
ただし、発行者が他人だ。出るかどうかも、量も、タイミングも、全部向こうが決める。
これを基盤に据えたデッキは、負けが込んだ時期にマナから事故る。
だから主は、自分で発行できるマナを基盤に据えることにした。
一つは、手応えだ。
テーピングが最後まで持った。練習が一度も止まらなかった。誰かが探すより先に水がそこにあった。何も起きなかった日、誰も保険屋に感謝しない。だが、何も起きなかった理由を知っている人間が、一人だけいる。保険屋本人である。
誰にも気づかれない完成度は、裏を返せば、誰にも奪えない。見えない仕事の唯一の特権は、査定者が自分しかいないことだ。
ただし、採点は現実に対して行う。テーピングが持ったかどうかは、気分では変わらない。だからこのマナは、精神が由来だが論として出力される。
もう一つは、理想との距離だ。
この記事は自己表明だと最初に書いた。理想を公開した人間には、種目が一つ増える。「今日の主は、グッドスタッフだったか」。毎日採点できて、丸をつけるのも主、バツをつけるのも主である。
どちらのマナも、支払日が今日で、支払人が自分だ。発行元が自分なだけで、カードの向き先は他人でいい。というより、向き先が他人であるカードを唱え続けるために、発行元を自分にしたのだ。
これを世間では自己満足と呼ぶ。悪口のつもりで。
だが考えてみてほしい。自分で自分を満たせる能力の、どこが悪口なのか。他人に満たしてもらわないと満足できない状態の方が、燃料事情としてはよほど不便である。
むしろ、他人の反応がないと成立しない自己満足は、もはや自己満足ですらない。あれは承認欲求という別のカードだ。主も積んでいる。抜けなかった。ただし4枚は積まない。1枚挿しである。
最後に白状すると、主のマナ基盤にも他人産のマナは混ざっている。感謝を一度貰うと、一週間ほど燃費が良くなる。設計思想と実機の性能は、別の話だ。
それでもこの設計図を公開したのは、事故った日に、主が自分で読み返すためである。
主のデッキは、今日も事故っている。(精神病患者より

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