【幸い辛い幸せ】

日常

はじめに断っておくが、星が降る夜と眩しい朝が繰り返すようなものでも、大切な人に降り掛かった雨に傘をさせることでもない。

人生のダイヤグラム

生誕を乗り越えると、束の間の平穏が待っている。束の間の平穏を終えると、受験が待っている。受験を乗り越えると、大学が待っている。 大学を乗り越えると、就活が待っている。 就活を乗り越えると、仕事が待っている。 仕事を乗り越えると、老後が待っている。 老後を乗り越えると、次の生誕が待っている。

これを世間は「人生設計」と呼ぶ。設計者は不明。隈研吾あたりだろうか。

私はこの設計に文句を言いたい。これは違法建築だ。

あの受験は何だったのか。偏差値という一本の数直線の上に全国の十代を整列させ、限られた椅子を奪い合わせる。あの椅子取りゲームを勝ち抜いて、ようやく座った大学の椅子。座り心地を確かめる間もなく、そこが就活の待合室だと知らされる。

入学式で、偉い人が「大学は学問の府である」と言っていた。三年後、同じ講堂で「就活セミナー」が開かれている。府とは何だったのか。少なくとも大阪と京都には謝るべきだ。

嘘つき自慢大会

就活を一言で表すなら、嘘つき自慢大会である。
自己分析という名の自己創作。 「私の強みは傾聴力です」と面接官の話を遮って言う。「御社が第一志望です」と三十社に言う。嘘が上手い順に内定が出る。

断っておくが、私はこの大会を批判できる立場にない。未経験だからだ。だが、ほぼ間違いなくこの先に待っているだろう。

そうして手に入れた席では、日々の業務が待っている。朝が来て、通勤して、働いて、帰って、寝る。気づけば金曜、気づけば年末、気づけば決算期、気づけば老後。

「同意する」を押した覚えがない

誤解のないように言っておくと、良い企業に入って富や名声を手に入れることが重要なのは、言うまでもない。金は要る。あるに越したことはない。

ただ、いつも疑問に思う。
死に物狂いで嘘をつき、他人を蹴落として、ようやく手に入れた椅子。その椅子に一生の大半を縛りつけられて(like a 杉森)、その時間のほとんどを、金を稼ぐことだけに使う。

それは、幸せなのか。

「生きるために働く」という言葉がある。だが、実際は「働くために生きている」。そう思えて仕方ないのだ。

恐ろしいのは、この逆転に同意した覚えが、誰にもないことだ。アプリの利用規約と同じである。誰も読まない。読まずにスクロールして、一番下の「同意する」を押す。人生の利用規約は、たぶん受験会場の机の上に置いてあった。

車内クレーム

ついでに白状しておくと、私はレールを降りた人間でもない。受験も就活も、文句を言いながら、全部乗ってきた。

レールを降りた人が語る「レールに意味はない」には説得力がある。乗ったまま文句を言う人間のそれは、ただの車内クレームである。

つまりこの記事は、車内クレームである。ただ、車窓の景色にケチをつける権利くらいは、乗客にもあるはずだ。運賃は若さで前払いしてある。

幸せの最低動作環境

では、何が必要なのか。
多分、『健康』『ひらめき』『友人』『時間』『今日を生きる金』。こんな感じだろう。

風呂で、くだらないことを思いつく。――ひらめき。 それを送りつけられる相手がいる。――友人。 「暇か」と返ってきて、会うことになる。――時間。 安い店で、そのくだらない話を三時間できる。――今日を生きる金。そしてそのすべての元となる気――健康

以上。これが私の最低動作環境である。

推奨スペックではない。「最低」である。
富や名声を積めば、動作はさぞ快適になるのだろう。だが、なくても起動はする。逆に、どれだけメモリを増設しても、この5つが欠けていたら、私はまともに動かない。

幸せとは

矛盾は存在する。
定義した瞬間、幸せは「目指すもの」になり、達成度が測られ、いずれ偏差値が出て、また受験が始まる。そんな気がしたからだ。

だからこうしよう。幸せには2種類ある。

日払いの幸せ後払いの幸せだ。

富や名声は貯金できる。積み立てられて、複利がついて、残高で他人と比べられる。だからあれほどの競争になる。幸せは貯金できない。今日の分は今日しか受け取れず、明日には繰り越せない。残高というものが存在しないので、他人と比べようがない。比べようがないものは争いにならない。

後払いの幸せもある。合格発表の朝。内定の電話。積み上げてきたものが完成した日。積んだ努力と我慢があとからまとめて支払われる。あれも間違いなく本物で、レールが売っていたのはこれだ。偽物を売っていたわけではない。ただし、但し書きがある。支払日を、自分で選べない。延期される。最悪、支払われないこともある。

そして何より、先払いだけが存在しない。
未来の分の幸せを、前借りして今日受け取ることはできない。「幸せになってから生き始める」という順序は、この世のシステム上選べない。幸せが先に振り込まれてから今日が始まるのではない。今日を生きた者にだけ今日の分が振り込まれる。
遠足の前日が楽しいのは、後払い分の前渡しではない。「楽しみにしている今日」に対する日払いである。

そう考えると、あのレールの本当の問題も見えてくる。後払いを信じたことが間違いなのではない。後払い一本に絞ったことだ。日払いの窓口を素通りして、後払いだけを待つ。だが先払いはないから、待っている間の今日は無給になる。無給の今日を三十年積んでも日払いは繰り越せないので、あとからまとめて受け取ることはできない。消えている。そして日払いの受け取り方を忘れた頃に、老後という名の自由時間だけがまとめて振り込まれる。使い方を忘れた金ほど使えないものはない。
だから両方受け取ればいい。
後払いは待つ。狙って積むのもいい。ただ、待っている間の日払いを取りこぼさない。日払いは、後払いが来るまでの「つなぎ」ではない。本給である。
仕事は今日を生きる金の調達先であり、ときどき後払いの窓口にもなる。だから時間は払う。ただし、日払いの受け取りをすっぽかしてまで通い詰める場所ではない。

最後にひとつ、書きながら気づいたことを置いておく。先払いがないということは、幸せの受け取り窓口が「今日」にしかないということだ。
日払いは今日支払われる。
後払いも支払日が来れば、それは「今日」として届く。
未来という窓口は存在しない。未来は到着したときには今日という名前になっている。

幸せとは、今日のことである。

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