第1章 楽園
「灯れ」
杖の先に、光が灯る。
言葉と、起きることは、同じものだ。灯れと言えば灯る。治れと言えば傷は塞がる。子どもは言葉を、それが起きるのを見て覚える。火を見て「火」を覚え、雨に打たれて「雨」を覚える。
ダンジョンの通路は狭い。先頭を戦士のダンが行き、真ん中を治癒師のミラ、最後尾を魔法使いが守る。
「疲れたか、ユーリ」
振り返らずに、ダンが訊く。
「疲れていない」
疲れていないので、そう答える。ダンはそれ以上訊かない。訊く必要がない。言葉は、起きたことをそのまま運ぶ。運ぶあいだに中身が入れ替わることはない。
魔王がこの地を治めて、三百の冬が過ぎたという。魔王の領地からは魔物が湧き、村を焼き、畑を荒らす。我々は魔王を倒すために生まれ、魔王を倒すために生きる。鍛冶屋は剣を打ち、農夫は麦を育て、子どもは石を運ぶ。誰が多く運んだかを数える者はいない。数える理由がない。誰が運ぼうと、石は我々の石だ。
村が魔物に襲われた夜のことを、よく覚えている。まだ杖を持たせてもらえなかったころだ。見張りの角笛が鳴ると、村中の者が、誰に言われるでもなく動いた。男たちは槍を取り、女たちは子どもを集め、年寄りは火を絶やさなかった。誰がどこに立つかを決める者はいなかった。決めなくても、空いている場所には必ず誰かが立った。朝になって魔物が退いたとき、誰が何匹倒したのかを知る者はいなかった。皆で倒した。それで十分だった。
出発の朝、村の皆が門まで見送りに来た。村長は三人の肩に順に手を置いて、言った。
「我々は、魔王を倒す」
皆が頷いた。
村を出て七日。ダンジョンの入口に着くまでのあいだ、夜はいつも三人で火を囲んだ。
ダンとは、同じ年の同じ季節に生まれた。同じ川で泳ぎ、同じ麦を食べ、同じ石を運んで育った。ダンが剣を選び、魔法使いが杖を選んだのは、ダンのほうが腕が太く、魔法使いのほうが言葉をよく覚えたからだ。それ以上の理由はない。ミラは隣の村の生まれで、旅に出てからは鼻歌ばかり歌っている。歌に意味はない。意味のない言葉は、歌のときにだけ許されている。
火を見ながら、ダンが村長の話をなぞった。子どものころから、何度も聞かされてきた話だ。
その昔、世界には闇が満ちていた。人は闇の中で、互いの顔も見えないまま暮らしていた。あるとき魔王が現れ、世界中の闇を集めて、果ての国へ持ち去った。こうして我々は、光の中に残された。だが魔王は、いつか闇を連れて戻ってくる。だから我々は、魔王を倒さねばならない。
「戻ってくる前に、こちらから行く」
それで話は終わった。
ミラがまた、意味のない歌を歌いはじめた。ダンがそれに合わせて、枕にした盾を指で叩いた。火の粉が、星のほうへ昇っていった。
通路の先で、空気が変わった。
「来るぞ」
ダンが盾を構える。闇の奥から、四つ足の魔物が這い出してくる。黒い毛並み。濡れた牙。目だけが、妙に人に似ている。
「灯れ」
光が通路を満たす。魔物が怯んだ一瞬に、ダンの剣が首を落とした。
魔物は死ぬとき、決まって同じ音を叫ぶ。
「ワタシ」
その音が何を指すのか、我々の誰も知らない。村長に訊いても、分からなかった。魔王の国の言葉だという。指すもののない言葉は、鳴き声と変わらない。
ミラがダンの腕に手を当てる。爪が掠めた跡から、血が滲んでいた。ミラは村いちばんの治癒師で、彼女の一言で塞がらなかった傷はない。
「治れ」
傷が塞がる。ミラが笑う。ダンも笑う。痛みが消えれば笑う。
さらに奥へ進むと、天井の高い広間に出た。
広間の中央で、床が鳴った。
罠だ、と分かったときには、天井が崩れはじめていた。ダンの真上だった。
体が先に動いた。ダンを突き飛ばす。ダンが転がる。ミラが叫ぶ。石が降る。
重い。冷たい。胸から下が、遠い。
ミラが石の隙間から手を差し入れて、胸に触れた。
「治れ」
光が溢れる。
「治れ。治れ。治れ」
光は溢れつづける。塞がっているのかどうかは分からない。
ダンの顔が見えた。泣いていた。ただ、悲しんでいた。
「ユーリ」
ダンが名を呼ぶ。何度も呼ぶ。呼ばれるたびに、遠くなった体が少しだけ戻ってくる。それでも、足りない。
最後に見えたのは、ミラの手のひらの光だった。
灯れ、と言おうとした。
声にならなかった。
第2章 現世
目を開けると、天井が白かった。
石ではない。木でもない。継ぎ目のない、のっぺりとした白。
灯れ、と言った。
何も起きなかった。
もう一度言った。少し大きな声で言った。隣の部屋から、壁を叩く音が返ってきた。
この体の名前は、早瀬透という。
二十歳。大学の二年生。狭い部屋に一人で暮らしている。そういうことを、なぜか知っている。体の底にもう一人ぶんの記憶が沈んでいて、手を伸ばせば引き上げられるのだ。壁の出っ張りを押せば天井が光ることも、枕元の板が「スマホ」と呼ばれることも、その板で遠くの誰かと言葉を交わせることも、全部知っている。
灯れと叫ぶより、出っ張りを一度押すほうが早い世界である。
先に言っておくが、透の記憶はあまり当てにならない。記憶は「何が」を教えてくれても、「なぜ」は教えてくれない。
最初に引っかかったのは、音だった。
透の記憶の中で、人々は誰もが同じ音を口にしていた。ワタシ。オレ。ボク。音は違っても、指しているものは同じらしい。話している、その一人。他の誰でもない、そのもの。
魔物の鳴き声だった。
この世界では、誰もが魔王の言葉を話していた。
部屋を出ると、それはもっとはっきりした。
駅へ向かう道でも、電車の中でも、人々は皆、手の中の板を見ていた。肩が触れるほど近くに立っているのに、誰も隣を見ない。我々の村では、すれ違う者とは必ず目を合わせる。合わせない理由がない。この世界では、合わせる理由のほうがないようだった。
車内の壁には、大きな絵が貼られていた。肌を磨く薬。毛を消す薬。痩せる薬。どの絵の下にも、『自分を好きになろう』と書いてある。自分を好きになるためには、まず自分のどこかを嫌いにならなければならないらしい。順序がよく分からない。
透の記憶を、少しずつ引き上げていった。
透には、一年前に想いを寄せた女がいた。想いを長々と書いて、板で送った。返事は来なかった。代わりに、透の書いた言葉の写しが、透の知らない部屋をいくつも渡り歩いた。『重すぎて草』『これは無理』。一つひとつに、ハートの印がついていた。それ以来、透は板に長い言葉を書かなくなった。短い言葉と、笑う顔の絵だけで暮らすようになった。
その場面に触れると、胸の奥が冷たくなった。なぜ冷たくなるのかは分からない。透の体が覚えている冷たさを、借りて感じているだけなのかもしれない。言葉を書いただけで、なぜ笑われるのか。想いを持ったことが、なぜ「無理」なのか。それも、分からなかった。
「,,,ッ!」
板が震えた。
透の板の中には、言葉を交わすための「部屋」がいくつもある。ゼミの部屋には二十人。それとは別に、透と佐野と宮下、三人だけの部屋がある。透の記憶によれば、二人は友人ということになっている。
ゼミの部屋に、北川という男が書き込んでいた。
『第一志望から内定もらいました!みんなありがとう!』
すぐに言葉が並んだ。
『おめでとう!』
『さすが北川』
『まじですごい』
佐野も書いていた。
『おめでとう!!今度飯おごれ笑』
良いことが起きた。だから皆が喜んでいる。我々の村と同じだ。誰かが大きな獲物を仕留めれば、村中で肉を焼く。
同じ時刻に、三人の部屋が光った。
『北川調子乗ってて草』
佐野だった。
『どうせ親のコネだろ』
『それな』
宮下が続いた。透の指が、透の記憶に従って、笑う顔の絵を押しかけた。寸前で止めた。止めたのは、透ではなかった。
草、というのは、笑っているという意味らしい。我々の世界では、草は山羊が食むものである。
透の記憶を遡ると、三人の部屋には、透自身が書いた『草』もいくつも沈んでいた。笑う顔の絵も、数えきれないほど押されていた。かつて自分の言葉を笑われた男が、別の誰かの言葉を笑っていた。透の記憶は、そのことについて何も言わなかった。言わないことに、すっかり慣れているようだった。
二つの部屋を、何度も見比べた。
『おめでとう!』
『調子乗ってて草』
同じ男が、同じ時刻に、同じ相手について、正反対の言葉を置いている。どちらかが起きたことで、どちらかが起きなかったことのはずだ。だが、どちらが。
言葉と起きることが別々にある世界を、我々は想像したことがない。雨と呼んで、火が降ってくるようなものだ。
翌日、大学の食堂で佐野に訊いた。
「おめでとうと、調子乗ってて草。どちらが本当なんだ」
佐野はきょとんとして、それから吹き出した。
「なに急に。どっちもだよ。ノリじゃん、ノリ」
「ノリ、、?」
「てか透もスタンプ押そうとしてたろ。既読ついてたし」
既読。見たことが、相手に分かる仕組みのことだ。見たことを隠せないこの世界で、見なかったふりをする技術だけが、異様に発達している。
「……え、まさかスクショとか撮ってないよな?」
一瞬だけ、佐野の目が、あの魔物の目に似た。
その夜、板に訊いた。この世界の板は、訊けば何でも答える。
『おめでとうと言いながら悪く言う なぜ』
答えはすぐに出た。
『嫉妬:他人が自分より恵まれていたり優れていたりすることを、うらやみ、ねたむこと』
自分より。
その三文字の前で、長いこと止まっていた。自分、というのは、ワタシのことだ。ワタシより恵まれている他人。他人より恵まれていないワタシ。
つまり、比べているのだ。
我々の村では、誰かが獲物を仕留めれば、それは我々の獲物だった。比べる相手がどこにもいない。比べる相手を作るには、まず我々を、いくつかに割らなければならない。
この世界の人間は、生まれたときから割れている。
三日後、北川の写真が出回った。
誰が作ったのかも分からない部屋に、北川が酔って道端で眠っている写真が貼られ、『内定者さまの本性』と添えられていた。写真は部屋から部屋へ、乾いた草に火が移るように広がっていった。
大学の廊下で、北川は誰とも目を合わせずに歩いていた。三日前に「おめでとう」と書いた者たちが、板越しにその背中を眺めていた。
誰も、何もしなかった。
宮下もその一人だった。講義室の後ろの席で、宮下は板を眺めていた。北川の写真が流れてくるたびに、指で上へ、上へと押しやりながら。
「止めないのか」
宮下が顔を上げた。
「何を」
「あの写真だ。北川が困っている」
「いや、俺がやったわけじゃないし」
「知っている。だから訊いている。なぜ止めない」
宮下は少し考えてから、面倒くさそうに言った。
「だって、関係なくね?」
関係ない。
その言葉を、帰り道でずっと口の中で転がしていた。我々の言葉に、それに当たるものはない。隣の家の屋根が落ちれば、それは我々の屋根だ。関係ない屋根など、どこにもない。
宮下は悪意を持っていない。佐野のように笑ってもいない。ただ、見ていた。見ているだけで、何もしない。この世界では、それにも名前がついているのだろうか。
板に訊くと、言葉がいくつか出た。無関心。傍観。それから、ずっと古い言葉がひとつ。
『怠惰』
怠惰は、七つあるうちの一つらしい。この世界には、悪いものの名前が少なくとも七つ用意されている。ずいぶん用意がいい。それだけ要るのだろう。この世界には。
その週の終わりに、北川を探した。
北川は図書館の隅で、ひとりで座っていた。板は、伏せて机に置かれていた。
「おめでとう」
と言った。北川が顔を上げた。
「内定のことだ。おめでとう」
起きたことに、起きたことの名前をつけただけだった。我々の村なら、それで肩を叩き合って終わる話だ。
北川はしばらく黙って、こちらを見ていた。それから、低い声で言った。
「……何?煽り?」
「違う」
「じゃあ何。あの写真見て、笑いに来たんだろ」
違う、ともう一度言った。言えば言うほど、北川の顔は硬くなっていった。最後に北川は板をつかんで、何も言わずに出ていった。
この世界では、言葉が真実でも、それだけでは届かないのだ。受け取る側が、まず疑う。疑ってから、裏を探す。裏のない言葉には、裏がないことそのものが、裏に見える。
灯れと叫んでも灯らなかった、あの朝の天井を思い出した。この世界で魔法が使えない理由が、少しだけ分かった気がした。
その夜、板が震えた。透の母親からだった。
『ちゃんと食べてる?』
それだけの言葉だった。ハートの印もなかった。誰に見せるためでもない、ただ一人に向けた、短い言葉。裏を探そうとしても、どこにも見つからなかった。
透の記憶によれば、透はこの種の言葉に、いつも返事をしなかった。少し考えて、『食べてる』と返した。本当は、まだ何も食べていなかった。
送ってから台所へ行き、冷えた米を食べた。返した言葉を、本当にするために。
この世界にも、言葉と起きることが同じものである場所が、まだ少しだけ残っているらしかった。板の中の、いちばん小さな部屋の中に。
その日の帰り、駅の階段で老人が転んだ。
抱えていた紙袋が裂けて、蜜柑が段を転がり落ちていく。人の流れは老人の手前で割れ、老人を避けて、また閉じた。
体が先に動いた。老人を起こし、蜜柑を拾い集め、裂けた袋の代わりに透の鞄へ詰めて、家の前まで送り届けた。我々の村では、子どもでもやることだ。
翌朝、板が鳴りやまなかった。
誰かが、その一部始終を撮っていた。『駅で神対応してる大学生いた』という言葉と一緒に、透の背中が世界中の部屋を渡っていた。ハートの印の横に、数字が添えられていた。
十二万。
三人の部屋では、佐野が書いていた。『透バズってて草』『有名人じゃん』。その少し下には、どこかの誰かの『自作自演だったらおもろい』という言葉が貼られていて、それにもハートがついていた。
数字が何を意味するのか、透の記憶はよく知っていた。見た、という印だ。良い、という印だ。十二万の人間が透の背中を見て、良いと言った。我々の村の者をすべて集めても、千にも届かない。
数字が増えるたびに、体のどこかが温かくなった。
気づけば、また板を見ていた。三分前と同じ画面を。十二万三千。十二万五千。減ることはない。増えるだけだ。増えるのを見ていると、胸の奥で何かが鳴る。鳴るたびに、もう一度見たくなる。
次は、どこで、誰を助ければいいだろう。
そう考えたとき、初めて、その言葉が胸の底から浮かび上がってきた。
——私の、数字。
魔物の鳴き声だった。
それが、私の口から出ていた。
さて、ここから先は、私の話になる。
それから私は、少しずつこの世界の人間になった。朝起きると、まず板を見た。数字はとうに増えなくなっていたが、それでも見た。人を助けるたびに、誰かが撮っていないかと周りを見回した。撮っていなければ、少しがっかりした。がっかり、という言葉も、このころに覚えた。
善い行いには二種類あることを知った。誰かに見られる善い行いと、誰にも見られない善い行い。前者のほうが、ほんの少しだけ気持ちがいい。我ながら最低である。
一度、試したことがある。
人の多い交差点で、杖をついた女が信号を渡りきれずにいた。私は駆け寄り、女の腕を取って向こう側まで渡した。渡りながら、周りを見た。板を構えている者を探した。
誰も撮っていなかった。
女は「ありがとう」と言った。我々の村なら、それで十分だった。十分すぎるほどだった。それなのに私は、女と別れたあと、しばらく交差点に立ちつくしていた。何かを取り逃がしたような気がしていた。ありがとうが一つでは、もう足りなくなっていたのだ。
一つでは足りない。十二万でも、たぶん足りない。一度知ってしまった数は、その日から下限になる。強欲という名前を板に教わったのは、その少し後のことだ。教わる前から、中身のほうはもう知っていた。
佐野は、会うたびに言った。
「透、もっと上げたほうがいいって。今ならフォロワー伸びるから。善人キャラで売れるって」
善人キャラ。善い人の、ふりをする役のことらしい。私はふりをしているつもりはなかった。だが、ふりではないと言い切れる自信も、もうなかった。
ある夜、三人の部屋を開くと、私のいないあいだに言葉が積もっていた。いや、正確には、三人の部屋ではなかった。佐野が間違えて、二人だけの部屋に書くはずの言葉を、こちらに置いてしまったらしかった。
『透まじで最近調子乗ってね?』
『善人キャラ板につきすぎ笑』
『どうせ裏でフォロワー数えてんだろ』
三分後、その言葉は消えた。消えた、という印だけが残った。翌朝、大学で会った佐野は、いつもどおり「よっ、有名人」と笑って、私の肩を叩いた。
北川のときと同じだった。おめでとうの裏に、調子乗ってて草。嫉妬は今、私に向いていた。
腹は立たなかった。立てる理由が見つからなかった。三つ目は、単に本当のことだったからだ。
この世界のことを知りたい。
ある晩、板をなぞっていると、こんな見出しが流れてきた。
『【未解読】世界最古級の文字、いまだ解読不可』
石の写真が添えられていた。上下の欠けた平たい石に、細い線の文字が並んでいる。
見たことがあった。我々の文字だった。
指が止まった。写真を大きくする。読めるのは、真ん中の一行だけだった。
『……我々は、私を知った……』
写真の下には、言葉が連なっていた。
『ラクガキで草』
『読めたら天才』
『どうせ偽物やろ』
それぞれにハートの数字がついていた。
私には読めた。我々の文字で、魔物の言葉が刻まれている。
ここは魔王の国なのだ、と私は思った。いつかの時代に、我々の誰かがこの国に迷い込み、この国の言葉に触れ、そして石にこう刻んだのだ。我々は、私を知った、と。
帰らなければ、と思った。帰って、伝えなければ。この国には、名前のついた悪いものが少なくとも七つある。我々はその名前を、一つも知らない。知らないものからは、身を守れない。
冬の夕方だった。
駅前の交差点で、信号が変わるのを待っていた。向かいの歩道で、黄色い帽子の女の子が母親の手を離した。風船が、と後になって誰かが言っていた気がする。女の子は車道に飛び出した。
トラックが来ていた。
体が先に動いた。
それが我々の体だったからなのか、誰かが撮ってくれると思ったからなのか、今となっては分からない。分からないということだけが、はっきりしている。
女の子を突き飛ばした。女の子が転がる。母親が叫ぶ。
音はなかった。少なくとも、私には聞こえなかった。
気がつくと、空を見ていた。冬の空は、目覚めた朝の白い天井によく似ていた。
人が集まってくる。輪になる。輪になって、誰も近づいてこない。輪のあちこちで、小さな光が灯っていた。ひとつ。ふたつ。十。二十。
板の光だった。
灯れ、と私は言っていない。それなのに、こんなにもたくさん灯っている。
輪の中に、ひとりだけ入ってくる者がいた。黄色い帽子が脱げて、膝から血が出ていた。女の子は私の手を握って、何か言っていた。泣いているせいで、言葉の形になっていなかった。
「あかり!」
輪の外から、母親の声がした。
あかり。それが女の子の名前らしかった。この国の言葉で、灯を意味する。
良い名前だ、と言おうとした。
声にならなかった。
小さな手の温度だけが、最後まで残っていた。


コメント