【長編小説『Яe-birth』】

小説

第3章 帰還

「治れ」

声が聞こえた。何度も。何度も。

目を開けると、ミラの顔があった。その後ろに、ダンの顔。石の天井。湿った空気。黴の匂い。
ダンジョンの広間だった。

「ユーリ」

ダンが名を呼んだ。ミラが声を上げて泣き出した。私は息を吸った。肺が軋む。胸から下が、ちゃんと戻ってきている。崩れた石は、すべて脇へ退けられていた。ダンが一人で退けたのだと、あとで聞いた。

向こうで三月を過ごした。こちらでは、日が傾いてさえいなかった。
起き上がろうとして、口が勝手に動いた。

「私は——」

ダンとミラが、同時に身を固くした。
ダンの手が、剣の柄にかかっていた。

「なぜ、魔物の声を出す」

私は口を押さえた。それから、ゆっくりと手を離した。

「行ってきたんだ。魔王の国に」

私は言った。

ダンジョンの奥へは進まなかった。報せを持ち帰るほうが先だと、三人で決めた。

帰り道の七日間、私は向こうで見たものを少しずつ話した。白い天井のこと。光る板のこと。誰も隣を見ない、箱のような乗り物のこと。ミラは目を丸くして聞き、ダンは黙って聞いていた。
三日目の夜、火を囲みながら、ミラが訊いた。

「ねえ、ユーリ。その国に、良いものはひとつもなかったの」

小さな手の温度を思い出した。黄色い帽子。膝の血。言葉の形にならなかった泣き声。

「なかった」

と、私は答えた。
なぜそう答えたのかは、分からない。あの手の温度を、私は確かに覚えていた。ただ、ひとつでも良いものがあると言えば、皆が油断する気がした。魔王の国は、魔王の国でなければならなかった。

ミラは「そう」とだけ言って、その夜は鼻歌を歌わずに眠った。

翌朝、火を起こそうとして「灯れ」と言った。火は点いた。

ただ、火はいつもより少しだけ小さかった。

村に戻ったのは、その四日後だった。
村長に頼んで、皆を広場に集めてもらった。鍛冶屋も、農夫も、石を運ぶ子どもたちも集まった。

私は話した。魔王の国のことを。

そこでは誰もが魔物の言葉を話していること。ひとりひとりが、自分のことを「私」と呼ぶこと。言葉と起きることが、別々にあること。同じ人間が、同じときに、おめでとうと言いながら相手を笑うこと。屋根が落ちても、隣の者が「関係ない」と言うこと。光る板の数字を、人々が朝から晩まで見つめていること。

「なぜ、そんなことをする」と村長が訊いた。

「名前のついた悪いものが、あの国には棲んでいるからだ」

嫉妬。怠惰。強欲。

私は三つの名前を教えた。七つのうち、私がこの目で見たのはその三つだけだった。ひとつずつ、どういうときに現れ、どんな顔をしているのかを話した。嫉妬は、他人が褒められているときに、喉の奥を苦くする。怠惰は、困っている者の前で「関係ない」と言わせる。強欲は、十分なものを、十分でなくする。

村長は、長いこと黙っていた。それから言った。

「魔物の言葉を、子どもたちに聞かせるのか」

広場の大人たちも、不安そうに顔を見合わせていた。

「知らないものからは、身を守れない」と私は言った。

「魔王の国の者たちは、生まれたときからこの名前を知っている。知っていても、ああなった。知らなければ、もっと酷いことになる」

言いながら、少しだけ引っかかった。知っていても、ああなった。それなら、知ることに何の意味があるのか。
だがその引っかかりは、口に出す前にどこかへ消えた。消えたことにも、そのときは気づかなかった。

「知っていれば、防げる」

私はそう言った。本当にそう思っていた。だからその言葉は、広場の誰の耳にも、真実として届いた。我々の世界では、真実として発された言葉は、そのとおりに働く。
広場の隅で、子どもたちが口の中で新しい言葉を繰り返していた。しっと。たいだ。ごうよく。木の実の名前を覚えるときと、同じ顔で。

一人の女の子が、私の袖を引いた。

「ねえ、わたし、ってなに」

「話している、その一人のことだ」

女の子はしばらく考えて、それから自分の胸を指差した。

「じゃあ、わたしは、わたし?」

周りの子どもたちが笑った。わたし、わたし、と口々に言いながら、自分の胸を指差して笑い転げた。新しい遊びを見つけた顔だった。
私も、つられて笑った。


第4章 変化

最初に変わったのは、ダンだった。

春の狩りの帰りだった。熊に腹を裂かれた若者を、ミラが一言で塞いだ。村の者たちがミラを囲み、口々に褒めた。ダンはその輪から少し離れたところで、それを眺めていた。

「ユーリ」

ダンが私の袖を引いた。声をひそめるのは、ダンにしては珍しいことだった。

「胸のあたりが、変なんだ。ミラが褒められているのを見ていると、喉の奥が苦くなる。熊を仕留めたのは私なのに、と思う」

ダンが、私と言った。
ダンは確かめるように、こちらの目を覗きこんだ。新しい言葉の使い方を師に確かめる、子どものような目だった。

「これが、嫉妬か?」

私は頷いた。少し、誇らしかった。教えたことが、ちゃんと役に立っている。

「そうだ。それが嫉妬だ。気をつけろ」

ダンは真剣な顔で頷いた。その日から、ダンは気をつけるようになった。

気をつける、というのは、自分の中の嫉妬を毎日探すということだ。探せば、見つかる。見つかるたびに、ダンは私に報告しに来た。今日はミラが長と笑っているのを見て、苦くなった。今日は鍛冶屋の息子の槍さばきを見て、苦くなった。私はそのたびに褒めた。よく気づいた、と。
ダンは、日を追うごとに、たくさんのことに気づくようになった。

夏に、村の子どもが崖から落ちた。

わたしはわたし、と最初に言った、あの女の子だった。膝が割れて、白い骨が覗いていた。ミラが駆け寄り、手を当てた。

「治れ」

傷は塞がらなかった。

ミラはもう一度言った。三度言った。光は手のひらに灯ったが、すぐに揺らいで、消えた。
ミラは、自分の手を見ていた。自分の手を疑う顔を、私は初めて見た。

「ユーリ」とミラは言った。

「この子、本当に治るのかな」

本当に。

ミラがその言葉を使ったのは、初めてだった。本当に、というのは、本当でないものがある世界でしか要らない言葉だ。
女の子の膝は、私が添え木を当てて布で縛った。透の記憶にあった手当てだった。三月かかって、女の子はまた歩けるようになった。少しだけ、右足を引きずるようになったが。

私自身の魔法も、少しずつ鈍っていた。灯れと言えば灯る。だが、向こうへ行く前より、ほんの少しだけ暗い。
魔王の力が強まっているのだ、と私は村長に言った。我々の言葉が、魔王に削られている。村長は深く頷いた。そうに違いない、と。村の誰もが、そう信じた。

秋には、井戸が涸れた。

新しい井戸を掘るために、男たちが広場に集められた。そのとき、粉屋の息子が、広場の端で腕を組んだまま言った。

「関係ない。うちの井戸は涸れてない」

誰も、何も言い返せなかった。言い返す言葉を、誰も持っていなかった。関係ない、には、関係ある、と返すしかない。だがそれは、口に出す必要がないほど当たり前のことだったので、誰も一度も口に出したことがなかったのだ。
当たり前は、名前を持たない。名前を持たないものは、守れない。私はそう考えて、次の日、「関係ある」という言葉を皆に教えた。言葉はすぐに広まった。ただ、関係ある、と言う者が増えるほど、関係ない、と言う者も増えていった。理由は分からなかった。

井戸は、いつもの半分の人数で掘られた。掘り終えるまでに、いつもの倍かかった。
子どもたちのあいだでは、新しい遊びが流行った。誰かが何かを頼むと、「かんけいなーい」と叫んで逃げる遊びだ。言われたほうも笑って追いかける。子どもは新しい言葉を覚えるのが早い。そして、覚えた言葉を使うのが何より好きだ。

冬が来る前に、長が広場に石板を立てた。

誰が何匹の魔物を倒したかを刻む石板だった。言い出したのは長だったが、思いついたのは私の話からだと、長は言った。魔王の国では、人々が数字で互いを確かめ合うと聞いた。数字は嘘をつかない。嫉妬が入りこむ前に、はじめから刻んでおけば、争いは起きない、と。
理屈は通っていた。少なくとも、そのときの私にはそう聞こえた。
石板のいちばん上には、私の名が刻まれた。二番目がダンだった。

悪くない気分だった。

板を見つめていたころの、あの胸の奥の音が、また鳴った。私はそれを、懐かしいと思った。

眠れない夜には、村外れの丘に登って星を数えた。百を越えたあたりで、自分が何をしているのかに気づいて、やめた。数えずにただ見上げていられたころの夜空がどんなものだったか、私はもう、うまく思い出せなかった。

石板が立ってから、夜にひとりで森へ入る者が出はじめた。ひとりで魔物を狩れば、刻まれる数はひとりのものになる。ダンもそのひとりだった。ある朝、ダンは肩を深く裂かれて帰ってきた。ミラは三度「治れ」と唱え、三度目でようやく血が止まった。傷跡は残った。
石板の二番目の数字が、ひとつ増えた。私の数字との差は、ひとつ縮まった。そのことに気づいた自分に、私は気づかなかった。

二年目の春、村で初めての嘘がつかれた。

長の家の水瓶が割れていた。そばにいたのは、粉屋の末の息子だった。

「わたしじゃない」

と、子どもは言った。

長は頷いた。言葉と、起きることは同じものだ。子どもがそう言うなら、そうなのだ。長は、割れた水瓶をしばらく眺めていた。眺めていたが、水瓶は割れたままだった。誰も割っていないのに、水瓶は割れている。村長はひどく困った顔をしていた。困るための言葉を、持っていない顔だった。

私には、すぐに分かった。

「それは、嘘というものだ」

起きたことと違う言葉を、わざと言うこと。魔王の国では、皆が毎日やっていること。私がそう説明すると、村長は目を見開き、子どもは泣き出した。泣きながら、子どもは新しい言葉を覚えた。その日の夕方には、村中の子どもが覚えていた。

これで、四つ目だった。名前を知れば、防げる。私はそう信じていたから、悪いものを見つけるたびに名前をつけた。名前をつけるたびに、少しだけ誇らしかった。
その夜、村長の家の灯は、いつもより暗かったという。

魔物は、年を追うごとに減っていった。

現れても、以前より小さく、弱かった。死ぬときに「ワタシ」と叫ばない魔物も増えた。何も言わず、煙のように崩れていく。
我々が強くなったのだ、と皆は言った。名前を知ったから。悪いものの名前を知り、それに気をつけるようになったから、魔王の付け入る隙がなくなったのだ、と。
私もそう思っていた。

村の中には、小さな亀裂がいくつも走っていた。ダンはミラと目を合わせなくなった。粉屋の息子は、新しい井戸に水を汲みに来なくなった。石板の前で、自分の名を探す者が増えた。私と言う者が、増えた。
それでも、魔王がいるうちは、我々は我々だった。
魔物が出れば、ダンは誰より先に盾を構えた。ミラは、効くかどうか分からない「治れ」を、それでも唱えつづけた。粉屋の息子でさえ、魔物の前では槍を握った。

割れ目は、塞がったわけではなかった。魔王という重石が、その上に載っていただけだった。

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