第5章 討伐
それから、四年が過ぎた。
四年のあいだに、村の言葉はずいぶん増えた。嫉妬、怠惰、強欲。関係ある、関係ない。本当に。それから、私が教えた覚えのない言葉もいくつか。ずるい。損。あいつ。どれも、口にするたびに少しずつ角が取れて、四年経つころには、昔からそこにあった言葉のような顔をしていた。
魔王の城へ攻め上ると決めたのは、春の寄り合いだった。三つの村の長が集まり、半日かけて話し合った。昔なら、話し合いは要らなかった。魔王を倒す。それだけのことだったからだ。その日は、どの村が何人出すのか、誰が先頭を行くのか、倒したあとの魔王の土地をどう分けるのかで、日が暮れた。
最後の問いには、結局、誰も答えなかった。倒してから決めればいい、と隣村の長が言い、皆が頷いた。頷いた顔は、どれも少しずつ違うことを考えている顔だった。
魔王の城へ続く道は、驚くほど静かだった。
かつて魔物が群れをなしていた谷も、骨のような木の並ぶ森も、今は風の音しかしない。三つの村から集まった二百人は、ほとんど剣を抜かないまま、北の果てへ進んでいった。
道中、隊列の先頭をどの村が行くかで、三度揉めた。三度とも、私が間に入って収めた。魔王を倒せば、我々はまた我々に戻る。私は本気でそう言い、皆も本気でそう聞いた。言葉は、そのとおりに働いた。少なくとも、その日のうちは。
城の門は、開いていた。
門番もいなかった。回廊にも、階段にも、魔物の影ひとつない。足音だけが、石の壁にいつまでも返ってきた。
「罠だ」ダンが言った。
「罠じゃない」ミラが言った。
「誰もいないだけ」
ダンは答えず、盾を構えたまま先に進んだ。ダンの肩には、あの夜の狩りの傷跡が、白く残っていた。
玉座の間に、魔王はひとりで座っていた。
思っていたより、ずっと小さかった。痩せて、髪は白く、背は丸まっていた。目だけが、妙に人に似ていた。これまで斬りつづけてきた、あの魔物たちと同じ目だった。
魔王は、我々の言葉で話した。
「来たか、魔法使い」
声は、乾いた枯葉のようだった。
「待っていた。礼を言わねばならんと思ってな」
ダンが剣を抜いた。私は手を上げて、それを制した。
「礼?」
「私は三百年、この世界の名もないものを預かってきた」
魔王は、自分の胸に手を当てた。
「比べること。見て見ぬふりをすること。もっと、もっと、と欲しがること。他にもいくつかある。お前たちがそれを持たずに済むように、私がひとりで引き受けてきた。私の兵は、私の中から溢れたものだ。お前たちが魔物と呼んで斬ってきたものは、本当は、お前たちが持つはずだったものだ」
魔王は、ひどく疲れた顔で笑った。
「名のないものは、器がなければ形を持てない。だから私が器になった。だが、もう要らん。お前が名前を運んでくれた。名を得たものは、名を呼ぶ者の中に棲む。この四年で、私の中はすっかり空になった」
魔王の目が、私を見ていた。責める目ではなかった。ただ、ひどく静かだった。
「礼を言う、魔法使い。ようやく、荷を下ろせる」
玉座の間が、しんとなった。
ダンが私を見ていた。二百人も、私を見ていた。
ミラだけが、魔王を見ていた。
「ユーリ」と、ミラが小さく言った。
「あの人、本当のことを言ってるのかもしれない」
あの人、とミラは言った。
私は魔王を見ていた。
魔王は嘘をついている、と私は思った。
魔王の国で学んだことだ。追い詰められた者は、最後に嘘をつく。おめでとうと言いながら、笑う。関係ないと言いながら、見ている。言葉と起きることは、別々にある。それを、ここにいる誰よりもよく知っているのは、私だった。
だから、惑わされなかった。
「消えろ」
と、私は言った。
その日、久しぶりに、魔法が言葉どおりに働いた。光が玉座の間を満たし、魔王は煙のように崩れていった。最後まで、魔王は笑っていた。叫び声は上げなかった。ワタシ、とも言わなかった。
何も起きなかった。
少なくとも、目に見えるものは。
村に戻った夜、三つの村の者が集まって祝宴を開いた。
肉が焼かれ、酒が回り、子どもたちが火の周りを走った。誰もが笑っていた。四年ぶりに、皆が同じ顔で笑っていた。私はそれを見て、やはり正しかったのだと思った。
村長が石板の前に立ち、魔王を討った者の名を刻もうとした。
「ユーリだ」と村長が言った。
「私だ」とダンが言った。
広場が、しんとなった。
「門を開けたのは私だ。玉座の間まで盾になったのも私だ。ユーリは最後に一言、言っただけだろう」
ダンの声は震えていなかった。ずっと前から用意していた言葉のように、滑らかだった。四年間、毎日欠かさず自分の中の嫉妬を探してきた男の声だった。探せば、見つかる。見つけたものは、育つ。
「隣の村の者だって戦った」と、誰かが言った。
「魔王の城の宝は、どこの村のものになる」と、別の誰かが言った。
「北の土地はどうする」
「先に言い出したのは、うちの長だ」
「関係ない」と粉屋の息子が言って、肉を抱えて帰っていった。
私は何か言おうとした。魔王を倒したのは我々だ、と。四年前なら、その一言で済んだはずだった。
口を開いて、出てきたのは別の言葉だった。
「最後に魔王を消したのは、私だ」
ダンが私を見た。私も、ダンを見た。
誰が最初に剣を抜いたのかは、分からない。分からないということだけが、はっきり分かっている。
冬が来る前に、三つの村は三つの国になった。
春が来る前に、三つの国は戦争を始めていた。
魔法は、もうほとんど誰にも使えなかった。治れと言っても治らない。灯れと言っても灯らない。人々は互いの言葉を疑い、自分の言葉を疑い、やがて言葉というもの自体を疑うようになった。真実と重ならない言葉は、ただの音だ。我々の世界は、音で満ちていった。
魔法の代わりに、人々は数を頼った。兵の数。剣の数。倒した敵の数。数は嘘をつかない、と誰もが言った。数を数える者は、いつか自分が数えられる側に回ることを、何より恐れた。
それでも、言葉どおりに働く魔法が、ひとつだけ残っていた。
憎しみの言葉だ。
「燃えろ」と叫べば、敵の幕舎は燃えた。「砕けろ」と叫べば、敵の盾は砕けた。治れも、灯れも、もう誰の口からも力を持たなかったのに、それだけは働いた。口にする者が、心の底からそう信じていたからだ。私も何度か、その言葉を使った。使うたびに、よく働いた。
石板は、最初の冬に砕かれた。自分の名が下のほうにあった者が砕いたのだと、噂で聞いた。噂、という言葉も、このころに生まれた。
戦が始まって二年目に、私の生まれた村が焼かれた。焼いたのは隣の村の兵だったとも、同じ村の者だったとも言われている。どちらが本当なのか、確かめる手立てはもうなかった。
焼け跡で、右足を引きずる娘が、ひとりで瓦礫を運んでいた。わたしはわたし、と最初に言った、あの子だった。もう子どもではなかった。私に気づくと、娘は運んでいた石を足元に置いて、言った。
「あなたには、関係ないでしょ」
私が何かを言う前に、娘は背を向けた。
ミラに最後に会ったのは、戦が始まって二年目の秋だった。
焼け残った納屋に、怪我人が並べられていた。こちらの国の者も、あちらの国の者も、区別なく寝かされていた。その間を、ミラがひとりで歩いていた。ひとりずつ手を当て、ひとりずつ「治れ」と言う。光はもう、ほとんど灯らなかった。
「効かないのは、分かってるの」
私に気づくと、ミラは手を止めずに言った。
「でもね、言わなくなったら、私が私じゃなくなる気がするの。おかしいでしょ。私なんて言葉、前は持ってなかったのに」
ミラは、少しだけ笑った。旅の夜に鼻歌を歌っていたころと、同じ笑い方だった。
私は何も言えなかった。言うべき言葉は、たぶんあったのだと思う。ただ、それが本当の言葉なのかどうかを、私はもう確かめようがなかった。
ミラは、その年の冬に死んだ。敵も味方もなく、怪我人の手当てを続けていたのが、どちらの国の気にも入らなかったらしい。裏切り者、と呼ばれていたという。その言葉も、私は教えた覚えがない。最後まで「治れ」と唱えていたそうだ。効いたかどうかは、誰も見ていない。
ダンとは、一度だけ戦場で会った。
ダンは一つの国の将になっていた。兜を脱いで、私の顔を見た。肩の傷跡が、鎧の隙間から覗いていた。何か言いかけて、やめた。それから、剣を構えた。
私に向けて。
私は逃げた。
ダンは追ってこなかった。それが、最後に見たダンだった。
それからの私は、どの国にも属さなかった。属する国のほうが、次々に消えていったからだ。
焼け跡から焼け跡へと歩いた。ある村で、子どもたちが石を運んでいるのを見た。昔の我々と同じように。近づいてみると、子どもたちは運んだ石の数を、地面に線を引いて数えていた。線の少ない子が、線の多い子に石を投げつけていた。
私は、声をかけなかった。かける言葉を、もう持っていなかった。
何年経ったのか、もう数えていない。
国はいくつにも割れ、割れた国がまた割れ、やがて国と呼べるものはなくなった。都は燃え、塔は崩れ、文字を読める者は年ごとに減っていった。人々は、互いの顔を見ないで暮らすようになった。
生まれてくる子どもたちは、もう「我々」という言葉を知らない。最初に覚える言葉は、『私』だ。その次が、『私の』だ。
私は、最初に死んだダンジョンに戻ってきた。
入口はほとんど土に埋もれていた。通路の天井はところどころ落ち、広間の床には苔が生えていた。崩れた石の中に、平たいものが一枚、転がっていた。天井の欠片だった。あの日、私の胸の上に落ちてきた石かもしれない。
子どものころに聞いた、村長の話を思い出した。魔王は、いつか闇を連れて戻ってくる。
話は正しかったのだ、と私は思った。魔王は死ぬことで、闇を連れて戻ってきた。あの玉座の間での笑いは、呪いをかけ終えた者の笑いだったのだ。
私は小刀で、その石に文字を刻んだ。いつか、我々の文字を読める者がまた現れたときのために。何が起きたのかを、正しく伝えなければならなかった。そして、それに抗う手立てを。
『魔王は死に、我々は私を知った。悪しきものには名をつけよ。名を知れば、防げる』
刻み終えるのに、三日かかった。
最後の一字を彫り終えて、私は杖を掲げた。昔、この広間でそうしたように。
「灯れ」
何も、灯らなかった。
ここはもう、魔法の使えない世界だった。
終章 Яe-birth
その石は、国立博物館の二階、古代文字の展示室のいちばん奥に置かれている。
縦四十センチ、横六十センチほどの、平たい石だ。表面には細い線の文字が刻まれているが、上下が大きく欠けていて、まともに残っているのは真ん中の一行と、その前後の数文字だけである。ガラスケースの脇の説明書きには、こうある。
『出土地不明。年代不明。用途不明。未解読』
不明が四つも並ぶと、説明書きというより、ほとんど謝罪文である。
この石が見つかったのは、四十年ほど前のことらしい。山あいの崩れた洞穴から、登山者が偶然掘り出した。以来、何人もの学者が解読に挑み、誰ひとり成功しなかった。似た文字は、世界のどこからも見つかっていない。この一枚だけが、どの文明の系譜にも繋がらないまま、ぽつんとガラスの中に置かれている。
来館者のほとんどは、この石の前で三秒ほど立ち止まり、写真を撮って、次の展示へ移っていく。その日も、修学旅行らしい中学生の一団が、ケースの前でひとしきり騒いでいった。
「これ読めたら一億とかじゃね?」
「ただののラクガキだろ」
写真はその日のうちに、どこかの部屋に貼られる。
『読めなくて草』
『ただのラクガキ』
『どうせ偽物やろ』
ハートの印がいくつかつき、すぐに流れて、見えなくなる。
一階の売店では、この石の写真をあしらった栞が売られている。読めない文字は、読めないまま、四百八十円の商品になった。そのことに異を唱える者は、もちろんいない。読めないのだから。
石に何が書いてあるのかを、この部屋の誰も知らない。
書いてあるのは、ひとつの報告と、ひとつの警告である。魔王は死に、我々は私を知った。悪しきものには名をつけよ。名を知れば、防げる。
刻んだ男は、最後までそれを薬だと信じていた。
最初に悪意に名前をつけたのが誰だったのか、石は語らない。刻んだ本人が、知らなかったからだ。
碑文は、誰にも読まれなかった。読まれる必要もなかった。言葉のほうは、とうに人の口から口へと渡り終えていたのだから。嫉妬。怠惰。強欲。今では小学生でも知っている。辞書を引けば載っている。七つ揃いで、ご丁寧に載っている。名前を知れば防げるはずだったものは、名前ごと、すっかりこの世界に住みついた。
この世界では、誰もが自分のことを「私」と呼ぶ。それがかつて魔物の鳴き声だったことを、覚えている者はいない。
十三年前、ある駅前の交差点で、ひとりの大学生が女の子をかばってトラックにはねられた。
その様子を撮った動画は、四十万回再生された。動画は、青年よりずっと長く生きた。今でもときどき、誰かの部屋に流れてくる。『泣いた』『こういう人ほど早く死ぬ。世の中おかしい』。ハートの印がつき、すぐに流れて、見えなくなる。
動画を撮った者たちの誰も、青年に駆け寄ってはいない。そのことに触れた書き込みは、ひとつもない。
その日、石の前で三秒より長く立ち止まった来館者が、ひとりだけいた。
二十歳になったばかりの女子大学生で、名を灯(あかり)という。右の膝に、小さな古い傷跡がある。
灯は、石の文字をしばらく眺めていた。読めるはずもない。読めないものを、読めないまま眺めていた。なぜそうしているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、細い線の並びが、ずっと昔に誰かが言いかけて、言えなかった言葉に似ている気がした。
あの日のことを、灯はほとんど覚えていない。覚えているのは、冬の空と、たくさんの光と、握った手の冷たさだけだ。手の持ち主が最後に何を言おうとしたのかは、今も分からない。分からないということだけが、ずっと胸に残っている。
写真は、撮らなかった。
展示室を出たところで、何かが倒れる音がした。
階段の踊り場に、老人がうずくまっていた。裂けた紙袋から、蜜柑がいくつも段を転がり落ちていく。人の輪ができる。いくつもの手が、いくつもの板を持ち上げる。小さな光が、ひとつ、ふたつと灯っていく。
その輪の真ん中で、灯だけが、老人の手を握っていた。


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